現在制作中の油彩画、プノンペン国立博物館の白蓮華
2024年11月01日
クメール文明が栄えたアンコールの遺跡群に強い魅力を感じてカンボジアの地を最初に訪れたのは三十年前の一九九四年十二月。当時はまだアンコールワットを訪れる一般的なツアーはなく、特殊な秘境ツアーに参加して訪れるのが一般的だったような気がするが、当時の私は一人旅の個人旅行でカンボジアを訪れた。 [全文表示]
2024年11月01日
クメール文明が栄えたアンコールの遺跡群に強い魅力を感じてカンボジアの地を最初に訪れたのは三十年前の一九九四年十二月。当時はまだアンコールワットを訪れる一般的なツアーはなく、特殊な秘境ツアーに参加して訪れるのが一般的だったような気がするが、当時の私は一人旅の個人旅行でカンボジアを訪れた。 [全文表示]
2022年10月30日
去年2021年の5月25日から描き始めた鉛筆画、二枚組の木製パネルにケント紙を水張りして描いたこの鉛筆画は、元々、以前にエジプト、カイロの街を訪れた際、旧市街のハンーハリーリ市場で撮影してきたスチール写真のカットを元に描くつもりでいたのが、急遽写真家スタンリー・トレティックによって撮影された大統領執務室を描くことに変更してしまったのだった。 [全文表示]
2022年8月31日
私が普段油彩画の描画や描き始める前のキャンバスの地塗りで使っている白絵の具はほとんどチタニウムホワイトであるけれども、それはここ二十年ほどの間のことで、それ以前はシルバーホワイトを使うことがほとんどだった。シルバーホワイトが有毒な鉛白を原材料にして練られた油絵具であるために、いつの頃からか酸化チタンを原材料にしたチタニウムホワイトを使うようになっていったのだ。 [全文表示]
2022年7月31日
テンペラ技法には卵黄を使って描く方法の他、膠などを使った技法などもあるようだが、私自身が卵黄を使ったテンペラ技法で絵画作品を描いたことがあるのは、一九八〇年代後半の芸大在籍中に、その当時、絵画技法材料の助教授だった佐藤一郎氏の元で大学のカリキュラムの一つとして描いたことがあるだけで、テンペラの溶液に混ぜられる酢の匂いが苦手でその後この技法に興味を持ち続けることができなかったような記憶がある。 [全文表示]
2021年6月30日
一般に日本人が油絵と聞くと、厚塗りでこってりと絵の具が乗せられたゴッホのような絵画作品をイメージする人が多いと思うが、欧米の絵画技法材料に詳しい東京芸大油画技法材料研究室の教授でもあった画家の佐藤一郎氏から直接聞いた話では、チューブからひねり出したままのような絵具を厚塗りでキャンバスに乗せて描かれる表現は、西洋絵画の歴史ではかなり最近のことらしい。 [全文表示]
2021年5月25日
偶然の成り行きで今日から描き始めた鉛筆画、ホワイトハウスの大統領執務室のジョン・F・ケネディ大統領とケネディ・Jrの写真を題材にした作品。この写真は1963年10月2日に写真家スタンリー・トレティックによって撮影されたカットだそうで、私がこの写真を知ったのは去年のこと、ネット検索で最初に見つけた雑誌に書かれた撮影日は1962年5月25日の日付になっていたので、1962年撮影の写真であると勘違いをしていた。 [全文表示]
2021年3月16日
ちょうど一年前の今日は、エジプト、ギザのピラミッド・エリアに滞在していた。去年の今頃はコロナ禍が始まったばかりで、世間はパニックに近い空気だった。二〇二〇年の三月初旬はエジプトのクルーズ船に乗ったツアー客のコロナ感染のニュースが大きく取り上げられていた時期で、そんな中エジプトに向かうことは正気ではないという雰囲気もあったし、私自身もエジプト行は完全に無理だと感じ諦めていた。 [全文表示]
2021年2月21日
制作途中のままで今日から再び描き始めた素描、パネル張りのケント紙に弥勒菩薩像を描いた鉛筆画。背景の白龍は最初から描いていたものではなく、制作過程で背景に白い龍のようなイメージが浮かんだので描いてみた。しかしながらこの先描画終了までその姿が残るのかはわからない。描いている弥勒菩薩像は、東京国立博物館の東洋館でよく常設展示されている石彫ガンダーラ仏の一点で、作品タイトル名は交脚菩薩像となっている。 [全文表示]
2020年1月4日
保科豊巳さんの展覧会では『There is Here, Here is There - 此即彼 彼即此』『Light of Darkness - 黒い光』などそのテーマになるキーワードや個々の作品名だけをとっても強い興味を引かれてしまうことが多いが、ちょうど三日後の今月7日から19日まで開催される東京藝大教授の退任記念展では『萃点』(すいてん)という言葉を初めて知り、ネットのキーワード検索を通じて得た情報から大まかな意味を知り、保科さんのアートワークの主軸になっているテーマとしてのコンセプトが若い時期から現在まで生涯の長きに渡って常に一貫していたのであろうことを改めて感じさせられることになった。 [全文表示]
2019年5月2日
元号が昭和から平成に移行した時期だった一九八九年二月、東京の神田と銀座で二週にわたって開催した個展では、画廊に門松、棺桶、揺り籠の既製品を配置するインスタレーション作品がメインの個展だった。棺桶は葬儀屋さんから借りて門松は実家の伊豆の温泉旅館から飾り終えたものをいただいた。そしてこれらを使ったインスタレーション作品は、誕生と死、祝と死といった相反するものを象徴する既製品を同一空間に置くことで互いを打ち消してしまうという意図から制作されたものだった。 [全文表示]
2018年5月22日
二十五年前の一九九三年五月には今はもう存在していない東京、銀座の村松画廊で個展を開催していて二十二日はその最終日だった。村松画廊は銀座にある現代アートのギャラリーの中でも長い歴史とそれなりの品格のようなものが漂っていて、それ故かもしれないが何度か開催したこの画廊での個展には私がとても尊敬していた著名な日本画家の近藤弘明さんや現代美術家の榎倉康二さん、また他にテレビディレクター時代の伊藤輝夫(テリー伊藤)さんなどは個展の開催に合わせ大きな花束を送ってから画廊を訪れてくれたこともあった。 [全文表示]
2017年10月31日
私が大学院二年生だった一九九二年秋には同じ油画科にインドのデリーから留学生がやってきた。私は彼が日本に来る前にインドで描いた絵画作品を見せてもらいその時のことが今現在でも強烈な印象として残っているけれども、彼の画面からは日本人には描けないであろうインド独特の感性のようなものも強烈に感じとれたのだ。それはインドのヒンドゥー寺院などでよく見かける神々の肖像絵と細密描写で描かれたダリのシュールレアリズム作品を混ぜ合わせたようなスタイルの油彩画作品で、しかしながら現代アート的な視点からでは趣味っぽいとか時代遅れ的であるとかいった指摘をする批評家もいそうな作風だった。 [全文表示]
2017年3月20日
私にとっての大学受験といえば四年前に東京藝大の文化財保存修復、日本画研究室の博士課程を受験して不合格だったことが記憶に残っているけれども、一九八七年に東京藝大油画科に初めて合格した頃の出来事はなぜか別の人生を生きていた前世の記憶ででもあるかのような印象を持ってしまう。しかしながら当時の記憶は断片的ながらもまだ残っているのでそれらが消えてしまわないうちにここに書き留めておきたいと思う。 [全文表示]
2017年2月28日
まもなく終了予定で現在制作中の鉛筆画。南インド、アルナーチャラ山の聖地ティルヴァンナーマライにあるヒンドゥー寺院、アルナーチャレーシュワラ寺院内の彫像を描いた作品。タイトルは『真我顕現 - アートマ・シッディ』となる予定。モチーフの写真は一九九五年秋に現地を訪れた際に撮影したもので、当時はまだデジカメはなくその頃使っていたフィルムカメラのキャノンEOSの一眼レフにポジフィルムで撮影したもの。[全文表示]
2016年1月8日
二〇一五年の大晦日、早朝に南インドのチェンナイ国際空港を飛び立ち、中東のアブダビを経由してエティハド航空EY653便で現地時間の正午過ぎにカイロ国際空港に到着した私は、入国審査の列に並んでいる際列のすぐ後ろに日本人女性一人を見かける。その後その夜からの宿泊先であったギザのピラミッド・エリアにあるスフィンクス・ゲストハウスでも日本人男性一人の個人旅行者を見かける。二人ともエジプトは初めてだそうでその彼らのどちらもが話していたのは「エジプト、ギザのピラミッドは一生に一度は訪れてみたい地、でもエジプト周辺の最近のニュースを見ていると、今のこの時期を逃したらもっとエジプトに行きづらくなってしまうのではなかという気もした。」といったものであった。[全文表示]
2014年12月16日
今日十二月十六日は昭和を代表する洋画家の一人、小磯良平さんの命日。私は生前の小磯良平さんには一度も会ったことがないけれども、写実的な技法を使った絵画制作に際してはまだ大学に通っていた頃の若い時期から彼の絵画技法の影響を受けてきている。写実的な技法で描かれた小磯良平さんの油彩画の多くがそれほど細かい描写もなくまた時には描きかけのような筆のタッチが残されているにも関わらず絵画作品としてきちんと成立しているのは、作品を制作しているときの彼の意識が一般の写実画家のような描写によって“画面を埋めていく”、“描いていく”という意識ではなく、晩年のセザンヌやフェルメールのように“画面を構築していく”、“組み立てていく”という意識で制作されているからだと思う。 [全文表示]
2011年3月8日
一昨日の日曜日、上野の東京国立博物館の特別展で日本画家の平山郁夫さんの大唐西域壁画の展示を観てきた。この壁画は本来納められている奈良の薬師寺で鑑賞するのがベストだろうと考え東京国立博物館での特別展示には出かけないまま終わりそうになっていたのだが、数年前に奈良の薬師寺を訪れた際には未公開の期間だったためまだ実物を見たことがなく、ずっと気にかかっていた作品でもあったので結局最終日の三月六日に上野の森へ出かけることになった。私が生前の平山郁夫さんと最後に会った場所は私の母校でもある上野の東京藝大の大学構内だった。 [全文表示]
2010年10月31日
今回はエジプト、ギザのピラミッドからの書き込みでエジプト滞在中にあと一回は現地からの投稿をしておきたいと思っている。今日十月三十一日はケルトの暦では年末の大晦日にあたる日なのだそうで、この日の夜にはこの世とあの世の間にある門が開かれ、死者達の霊が現世のこの世界に戻ってくるとも言われているそうだ。私自身はハロウィンにはほとんど関心がないけれどアトランティス大陸の最後の崩壊が起きたのが同じ十月三十一日の夜からその翌朝にかけてのことだったという話を聞いて以来、毎年十月三十一日の夜を特別な想いで過ごすようになっていた。 [全文表示]
2007年3月3日
ここ最近はエジプト関連の話題を書いてきているので、このあたりでギザの古墳墓、オシリス・シャフトに関する情報提供の際の番組制作会社のテレビ・プロデューサーとの間で起きた顛末記でも書こうと思っていたのだが、私自身は現在画家という肩書きを使っているので、今回はひと先ず本業に立ち戻り絵画関連の話題について書いてみようと思う。私は大学では油画科を専攻していたのだが、私が学生だった頃の一九八〇年代後半の日本を含めた欧米を中心とした現代アートの世界はインスタレーションと呼ばれる、ギャラリーや展示空間そのものを作品の一部として扱うような表現方法の作家たちの全盛の時代であった。川俣正氏や保科豊巳氏、宮島達男氏といった同じ油画科の先輩たちがまだ学生時代のうちからベネチア・ビエンナーレやパリ・ビエンナーレといった様々な国際展で活躍していた時期だったのである。 [全文表示]
2006年9月30日
今回は考古学に関連した発掘の話題について書いてみる。でも私自身は発掘に関しては完全な素人であるから、ここでは一般人の立場からの見解になる。私は今月十日から再びエジプトのカイロに滞在していて、今回で二十九回目のエジプト訪問になる。今回のエジプト訪問の最初のきっかけはギザでの発掘の準備をすすめていたアメリカ人エンジニアのビル・ブラウン氏から現在彼が発掘許可申請を行っているギザのピラミッド・エリア内での発掘調査にメンバーとして参加してほしいとの申し出があったからだった。 [全文表示]