日本画家,平山郁夫さんの大唐西域壁画

2011年3月8日

一昨日の日曜日、上野の東京国立博物館の特別展で日本画家の平山郁夫さんの大唐西域壁画の展示を観てきた。この壁画は本来納められている奈良の薬師寺で鑑賞するのがベストだろうと考え東京国立博物館での特別展示には出かけないまま終わりそうになっていたのだが、数年前に奈良の薬師寺を訪れた際には未公開の期間だったためまだ実物を見たことがなく、ずっと気にかかっていた作品でもあったので結局最終日の三月六日に上野の森へ出かけることになった。私が生前の平山郁夫さんと最後に会った場所は私の母校でもある上野の東京藝大の大学構内だった。そして平山さんは若き日の藝大の学生時代から教授や学長を務めていた晩年までの長い間上野の森と縁の深い人だった。その同じ上野の森にある国立博物館での展覧会ということもあり、彼の作品の展示されている上野の森を訪れたらまだ肉体を去ってからそれほど時間の経っていない平山郁夫さんの意識に多少でも触れることができるかもしれないとも思えてしまったのだ。彼に対しては輝く金色のとても高貴なオーラを放っていた人物であるという印象が強いので、彼自身は最晩年のテレビ番組のインタビューの中でも「もう一度生まれ変わってでも描き続けなければ時間が足りない」とも語っていたけれど、チベットの転生活仏たちのような特別な事情でもない限り彼はもうこの娑婆の世界にわざわざ再び生れ落ちてくることはないだろうと私には思われる。 
特別展の開催されている平成館の展覧会場を入って最初に平山さんの大きなポートレート写真を正面に見る。その瞬間姿なき彼の意識と通じ合ってしまったような感覚が沸き起こってきた。特別展の会場内は鉛筆なら使っても問題ないと係りの女性から言われ、鉛筆でクロッキー帳に大唐西域壁画のいくつかの場面をスケッチ模写した。展示場にあるソファーに座って第六場面のインド、デカン高原を描いた作品をスケッチしているとき、ほんの一瞬平山さんの意識が私に乗り移ってきたような感覚があった。その瞬間はちょうど無心の状態に入っていて彼のハートが私のハートと重なり合うような感触があり、僅かの間だけ彼の意識が私の肉体を使って筆を動かしているような感覚もあった。そして生前に絵を描いているときの彼の感情が直接伝わってくるようだった。彼はスケッチを描くことに深い生き甲斐を感じていた人だったのだなあとこのとき感じた。特に雄大な景色を前にして風景のスケッチを描くことが心底好きだったようだ。そして姿なき平山郁夫さんの意識から「あなたはいいねえ、今現在肉体を持っているから“筆を動かす”ことができる。描くことのできる今をもっと大切にしなさい」と戒められているような気がした。 
数枚のスケッチを描き終えた後監視員の女性がやってきて、スケッチのほうは手短にお願いしますと言われ、そのスケッチを途中のまま終わりにしてその会場ではクロッキー帳を閉じた。
今回の展覧会で展示されていた平山郁夫さんの作品にカンボジアのアンコールワットやインドのナーランダなど、月を描いた夜景は私が実際に現地を訪れ月夜の晩に瞑想に入った際に感じた印象そのものを描き出しているように思えた。平山さんの風景画は視覚的に見えている風景そのものを描くというよりは、風景を取り囲む大気やオーラのようなものを描き出そうとしているようにも思える。描かれるモチーフ以上にそれを取り巻く空気を描き出すという点では西洋画のフェルメールの作品にも相通ずるものが感じ取れる。フェルメールはたんに現実の空気を描き出すということに留まらず、描きだされた空気が形而上的な普遍化された感情にまで高められてしまっているという印象はある。けれども基本的にフェルメールがこの物理次元の現実の世界の大気、空気をベースにして描いたのに対して平山さんは最初からもっと霊的な領域の空気を描き出そうとしているように思える。その点では、私の知っている他の作家の中ではルドンの描くパステル画も思い起こされた。それはアストラルの意識状態で霊眼によって捉えられた景色なのかもしれない。描かれている視点も少し上空に浮いた状態から地上を見下ろすような視線で描かれているように感じられる作品が多いのもそれ故なのかもしれない。今回奈良の薬師寺から持ち出されてきた大唐西域壁画の作品のシリーズは、祈りや瞑想の空間でもある寺院の中に納められることを前提に描かれたためなのか特に霊的な大気のようなものが画面全体から強く感じとれた。一番印象に残ったのは第五場面の『バーミアン石窟・アフガニスタン』というタイトルの作品。この作品には画面全体を包む霊的な大気の他に、画面の中央上方に畏敬の念を感じさせられるような巨大な得体の知れない楕円形のエネルギーの塊が描き出されているように私には見えた。それが何であるのかは現時点の私にはよく理解できなかったのだが、いつか将来奈良の薬師寺を訪れる機会があればその時に本来あるべき場所でもう一度この画面の前に立ってみたいと思った。
特別展の会場を出た後は、そのまま常設の展示室に向かった。最初に訪れた常設展は日本の考古というテーマの部屋だった。この展示室を入ると、私は今回東京国立博物館を訪れて特別展の平山郁夫さんの作品以外で必ず見ておきたいと思っていた作品に偶然にも真っ先に出会うことができたのだが、それについては次回以降に紹介したいと思っている。

*見えない誰かの意識によって描かされているといった感覚は大唐西域壁画を制作中の平山郁夫さん自身の生前のテレビ・インタビューの中でも語られているようなので以下に紹介しておきます。
「・・・生かされていると思いましてね、みんなによって生かされている。描くのは私の右腕一本ですけれども、中途で倒れた(戦火に倒れた)大勢の仲間達の代表でですね、みんながやれ、やれ、やれ、やれということでやっていることはまだ感じますね。」(2009.12.31放送 耳をすませば~あの人からのメッセージ~より)

公開日 2011年3月8日 火曜日

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