無為の為, 作為性を超えた作為について

2005年3月7日

海の波や空を漂う雲の形のように自然の作為には作為性がない。ヒンドゥー教の世界ではこれをリーラ、神の劇と呼んでいるそうだ。それは川や滝の流れの音の創り出すメロディーにもあてはまると思う。 
このことを鎌倉、霊鷲寺の開眼者、菊池霊鷲師は「地球の響きは音符にのらない。」という言葉で表現した。彼女が歌を歌う時にはいつも口癖のようにこう語っている。 
「私が歌うときには、私だけが歌っているんじゃない。鳥も大地も海も空も、万物のすべてのものが私を通じて歌っているのだ」 
絵画の場合でも作者が個人としての作為を超え“存在”のリズムに共振した状態で筆を動かすことができれば、外見上は作者の作為によって描かれているように見えても、自然の創り出す作為のように作為性を超えた無作為の作品を生み出すことができると思う。またこの状態で描かれたタッチ、画面は自然の創り出す形と同等の力、リアリティーを持っている。そしてそのときには一枚の閉じた平面の中に全宇宙を取り込んだ絵画作品を描きだすことも可能だと思う。この状況では現代アートの作家たちの語る「閉じた平面(絵画)では追いつかなくなってしまったのだ」といった言葉も意味をなさなくなってしまうのだ。
また“存在”のリズムとつながった状態で創られたものは、たとえ具体的な何かの表象物、モチーフなどを表現していてもそこに作者の作為性が見出されることはない。抽象的な表現手法を使った方がより本質的な要素に対してダイレクトであるとも言えるかもしれないけれども、具体的な何かの表象物を表現してしまったらそれが当てはまらなくなるということにはならないと思う。 
エジプト、ギザのグレート・スフィンクス、日本の百済観音を代表とする飛鳥彫刻、アルカイック期のギリシャ彫刻などの前に立つと、宗教的な意味合いや時代様式などといったこと以前に何か宇宙的といった言葉で表現できるような感覚が呼び覚まされるのも、これらの作品を創った人達が“存在”のリズムとつながった状態で制作していたからであると思う。だからこれらの作品は人々の意識を此岸から彼岸へと誘うための仕掛け、装置の役割も果たしてくれているのだ。そしてエジプト、ギザのグレート・ピラミッドはこれが究極的な形で表現されたものだと思う。

公開日 2005年3月7日 月曜日

画家のノート コラム・エッセイ