榎倉康ニ展×マルセル・デュシャン展
2005年5月5日
二〇〇五年の今年に入ってから続け様に東京都現代美術館の榎倉康二展と横浜美術館のマルセル・デュシャン展を見てきた。最近は古代遺跡や博物館ばかりに気をとられていて現代アートの展覧会を観に行く機会が少なくなったのだが、この二人のアーティストは私の人生に大きな影響を与えた人物だったので、どうしても観に行かないわけにはいかなかったのである。
私が現代アート、コンテンポラリー・アートと呼ばれるような世界から離れてかなりの月日が経っているのだが、といっても私はそういった分野での大きな国際展などに出品をした経験もなく、自分の作品がそういった世界で評価されたこともないので正確にはたんに現代アートと呼ばれる分野に興味を感じて、そういった分野に属すると思われるような作品を細々と発表した経験があるという程度にすぎない。
マルセル・デュシャンは私がまだ幼い年頃にはこの世を去っているのでもちろん彼と会って話したことはないけれども榎倉康二氏とは私が東京藝大の学生だった頃、彼は油画科の助教授であったので学校に通っていた大学院までの六年間は時々顔を合わせて話す機会があった。そして榎倉氏は私がデュシャンに強く惹かれるようになっていったきっかけの人でもあった。
たぶん大学二年生の時だったと思う、銀座の画廊で榎倉氏に偶然会いそのままいっしょに銀座の飲み屋に入って話したことがある。その時私はデュシャンの泉(既製品の便器を寝かせて置きサインを入れた作品)についてあれこれと話しはじめたのだが、彼はいきなり私の話を遮って「あなたはデュシャンの泉についてあれこれ言っているけど、美術館に置かれているその便器の作品を実際に見たことがあるのかね?」と聞き返されてしまったのだ。それですぐに「美術館ではまだ見たことがありません。」と答えた。
それに対し榎倉氏は「自分が実際に見て経験したことのない事項について語る時にはもっと慎重になるべきではないのかね。」という警告にも近い返事を返してきたのだ。そしてこの時の彼の言葉は今日現在に至るまで私にとって重要な意味を持ち続けている。人から聞いた話、テレビや新聞のニュースで聞いただけの情報を何の疑いもなく鵜呑みにしてあれこれ議論したりすることの危険性をこの時以来はっきりと自覚するようになったからだ。
そういった意味で榎倉氏自身の作家としての主要なテーマも一般のアーティストのように何をモチーフにするのかとか、どんな表現方法で造るのかといったこと以前の、人間は素材(絵の具やキャンバスなど)とどう関わるべきかといった表現以前のもっと根源的な要素を主要なテーマにしていた人だと思う。
榎倉康二氏の最も代表的な作品のひとつを一言で説明すると、「何かの支持体(木や紙など)にオイルが染み込んでいてその染み込んでいる状態を見せている作品」ということになると思うのだが、一般人なら「それのどこが作品なの?」と聞き返したくなるかもしれない。何かにオイルが染み込んだ光景など日常生活の中でもよく見かけるものだからだ。今から十数年前に自分も初めて榎倉氏の作品を見たときには、同じ疑問が沸き起こってきた。でもそれは、単に自分の側がそういった作品とコミュニケーションをするための回路を持ち合わせていないからだということが後々理解できるようになってきた。
普通写実的な絵画作品を見て、この作品はよく理解できる、分かりやすいというとき、それは画面から視覚的に具体的なモチーフの姿が読み取れてなおかつそのモチーフの情感などが読み取れるという意味合いだけで解釈されてしまうことが多い。抽象的な作品の場合でもバランス感覚やリズム感、配色などのもつ作者の個性を感じ取った時点でその作品を理解したと思い込んでしまう場合が多い。しかしながら榎倉康二氏の『何かの支持体にオイルが染み込んでいてその染み込んでいる状態を見せている作品』とのコミュニケーションはそういった手段では成り立たない。それで、現代アートは分かりにくいという言葉で片付けられてしまうことになる。それでは『ベニヤ板の一部にオイルが染み込んでいる』というような榎倉氏の作品とはどのようなコミュニケーション手段が存在するのか?ということになるのだが、こういった作品とのコミュニケーションに必要な回路を開くには、これらの作品と頻繁に対面する機会を持つしかないということになってしまうのかもしれない。そしてそれには知的な理解やアートに関する先入観をいったん脇に置いて作品に接してみるということも必要になるかもしれない。であるから現代アートの専門書を読み、その作品の生まれた背景のようなものを知的に理解してもこれらの作品との直接的なコミュニケーションにはそれらの情報がかえって邪魔になることすらあるかもしれないと思う。
しかしながらはっきりと言えるのは榎倉氏の作品はとても伝統的な美意識や感性にもとづいて生み出されているということ。そしてそれはマルセル・デュシャンにも当てはまる。彼らは美術という歴史の中でも王道とも言えるような伝統の枠の中に位置するアーティストであると思う。そしてこれは私の目から見れば一見反芸術のシンボル的な作品とも言われているデュシャンの泉、便器の作品にも当てはまってしまうのだ。
公開日 2005年5月5日 木曜日
画家のノート コラム・エッセイ