現在制作中の鉛筆画、ガンダーラ仏を描いた素描『弥勒菩薩白龍図』
2021年2月21日
制作途中のままで今日から再び描き始めた素描、パネル張りのケント紙に弥勒菩薩像を描いた鉛筆画。背景の白龍は最初から描いていたものではなく、制作過程で背景に白い龍のようなイメージが浮かんだので描いてみた。しかしながらこの先描画終了までその姿が残るのかはわからない。描いている弥勒菩薩像は、東京国立博物館の東洋館でよく常設展示されている石彫ガンダーラ仏の一点で、作品タイトル名は交脚菩薩像となっている。初めてこの彫像を見たのは、私がまだ大学四年生だった1990年のことだ。当時、私はその前年の秋1989年10月から一時帰国を含めて半年ほどをインドで過ごしていた。最初の三か月の二週間ほどが過ぎた頃、現在プネーと呼ばれている高原都市プーナのコレガオン・パークに当時の私の連れと共にレンタルフラットの部屋を借り、肉体を去る直前の時期であったインドの神秘家OSHOのアシュラムに毎日通い瞑想の日々を送っていた。レンタルフラットの私が滞在していた部屋の入った建物の名称はヨギ・パーク。この建物はOSHOアシュラムから歩いて数分のエリアにあり、その名の通り、瞑想目的でこの地を訪れた人達の多くがこのヨギ・パークで暮らしていたようだ。私の滞在していたフラットの別の部屋には、もう二年以上日本に帰国していないと話す京都大学哲学科卒の日本人瞑想者も居た。アシュラムでは日中の瞑想スケジュールの他に、夜七時からは毎晩OSHOとのダルシャンがあり、彼と共に瞑想に入る時間もあった。インドでは霊的指導者と接することをダルシャンと呼ぶそうだ。1989年秋からのインド滞在は私にとって生まれて初めてのインド旅行。インドへの最初の入国の際には、当時ボンベイと呼ばれていたムンバイ国際空港の出口からトランジット・ホテルへの移動の際、乗っていたバスの窓から道の両脇に無数のインド人が浮浪者のように路上に寝ている姿が目に入り、最初はそれだけでもかなりのショッキングな出来事だった。現在ではバンコクなど他の国からでも直接プーナ空港に降り立つことができるが、三十年前当時から私がよく使っていたエアインディアの国際線ではデリーに降り立った後プーナへの国内線の乗り継ぎはカバーされておらず、プーナから三百キロ程離れたボンベイ国際空港からの入国が一般的なルートだった。この空港に隣接したスラム街はボンベイ・スラムとして当時からよく知られていたようなので、私がボンベイ空港の外で見た路上に寝ている無数のインド人の姿もこのスラム街と関係があったのだろう。
当時から私の関心があった仏教壁画の残るアジャンタ石窟はプーナの街からそれほど遠いエリアではなく、アジャンタ石窟を訪れる際の起点になるアウランガバードの街はプーナからタクシーで数時間の距離だった。それでプーナでの滞在中にはアジャンタ石窟も訪れている。しかしながら私が会っていた時期のOSHOは地上の人間とは思えないような後光を放っていて、彼の全身からは膨大な光のエネルギーが放射されていた。その彼との瞑想の時間を毎晩過ごしていくうちに、容易に深い瞑想状態に入っていけるようになり、また私自身の全身からも気のエネルギーが放射され始め、それが日に日に強まっていったのだった。そんなこともあり、最初の三か月間はアジャンタ石窟以外を訪れることはなく、ほとんどすべての時間、プーナでの瞑想に没頭していた。ちなみにこの時期に私の全身から放射され始めたエネルギーはこの三十年の間に徐々に強まっていき、今では全身から滝のような勢いでエネルギーが放射されるようになってしまっている。以前私の絵画展を見たことがあるという女性画家の方に「画面から気が出ているような絵を描く方ですね!」といったことを言われたことがあるが、実際私自身がキャンバスや紙の画面に向かっている間も、途切れることなく全身からエネルギーが放射され続けているので、支持体の画面自体からもオコボレ的に気のエネルギーが放射されている可能性は否定できない。
半年のインド滞在の間、最初の三か月で一時帰国することになったのはインドまでの航空券が三か月オープンのチケットであったからなのだが、ちょうど私が一時帰国で日本に戻っている間にインドのOSHOはこの世を去っていってしまっていた。そんなこともあり、二度目のインド滞在中にはプーナの街のヨギ・パークのレンタルフラットは借りたまま、大きな荷物を置いてプーナを離れ、北インドの仏陀の聖地や遺跡などインド各地を訪れていた時間も多かった。当時の私はこの二年ほど前に発売されたばかりのフィルムカメラの一眼レフ、キャノンEOSの初代機650を持っていたが、このカメラは元々インスタレーションのような展示後に解体されてしまう私自身のアート作品を撮影するために購入したものだった。そして、この時期のインド各地を訪れる旅は私にとって、その後世界各地の聖地や遺跡への撮影旅行に頻繁に出かけるようになる最初のきっかけになる旅になった。この時期に撮影したデリー博物館の彫像やカジュラホ遺跡の彫像は数年以内に鉛筆画で描いているが、他にいつか描きたいと思いつつ三十年が過ぎ未だに描けていない彫像に、サルナート博物館所蔵の初転法輪仏座像がある。サルナート博物館はその後訪れた際には館内撮影禁止になっており、三十年前にフィルムカメラで撮影した写真が私の持っている唯一のものになる。この時期の旅では、ブッダガヤを訪れた後インド最大の聖地とも言われるベナレスを訪れ、その後ベナレスから飛行機でネパールのカトマンズを訪れている。カトマンズではガンジス河の支流にあたるバグマティ川対岸からのパシュパティナート寺院の眺望が特に私のお気に入りだったが、この時撮影した写真から卒業制作用の油彩画を描き始めた。しかしながら美術学部卒業までに描き終えることはできず、その二年後の大学院修了制作展でようやく展示することはできたが、納得のいく出来には程遠かった。その後もいくら加筆しても描画完了の感触は得られず、また現地のカトマンズもその後も何度か撮影を兼ね訪れているが、結局描き始めた1990年秋から三十年が過ぎた2021年の今現在でも未完のままになっている。東京芸大の油彩画技法材料の教授だった佐藤一郎氏とは、私の大学卒業後十年ほどが過ぎた2004年に再会しているが、その際彼は私の名前は忘れてしまいすぐには思い出せなかったが、修了制作展で展示したことのあるパシュパティナート寺院の油彩画のことだけはしっかり覚えてくれていて、別れ際にも「あの作品が完成した時にはおれにも連絡してくれよ!」といったことを言われたこともあったが。
1989年10月からの半年程のインド滞在を経て日本に戻ると、同級生に「以前は野心的なギラギラした目付きをしていたのに、インドに行ってからは焦点がないような目付きの穏やかな表情に変わってしまったね」と言われたこともあった。それからインドの遺跡を懐かしむような気持もあり、大学から歩いてすぐの場所にある東京国立博物館を頻繁に訪れるようになる。その際特にお気に入りだった石彫ガンダーラ仏の前に立ち、瞑想の祈りを捧げたりすることもあった。そして当時から将来必ず絵画作品で描いておきたいと思っていたガンダーラ仏の一点が、現在鉛筆画で描画中の弥勒菩薩像になる。この博物館は三脚やフラッシュを使用しなければ館内撮影ができ、今描いているこの彫像の写真は十年前の2011年3月初旬に、普段展示されている東洋館以外の建物で展示されていた時期に撮影したものを使っており、館内での簡単なドローイングはそれ以前からも描いていたが、鉛筆画として描き始めたのは2019年6月。最後に加筆したのは去年2020年7月のことだったのでもう半年以上手を入れておらず、再び制作意欲の沸き起こっている今のこの時期に一気に描画を完了させたいと今は考えている。
公開日 2021年2月21日 日曜日
画家のノート コラム・エッセイ