描くことについて, 画家 大沼映夫さんの言葉より

2007年3月3日

ここ最近はエジプト関連の話題を書いてきているので、このあたりでギザの古墳墓、オシリス・シャフトに関する情報提供の際の番組制作会社のテレビ・プロデューサーとの間で起きた顛末記でも書こうと思っていたのだが、私自身は現在画家という肩書きを使っているので、今回はひと先ず本業に立ち戻り絵画関連の話題について書いてみようと思う。私は大学では油画科を専攻していたのだが、私が学生だった頃の一九八〇年代後半の日本を含めた欧米を中心とした現代アートの世界はインスタレーションと呼ばれる、ギャラリーや展示空間そのものを作品の一部として扱うような表現方法の作家たちの全盛の時代であった。川俣正氏や保科豊巳氏、宮島達男氏といった同じ油画科の先輩たちがまだ学生時代のうちからベネチア・ビエンナーレやパリ・ビエンナーレといった様々な国際展で活躍していた時期だったのである。この三人はいずれも榎倉康二教授の門下生で、教授たちの中でも学生に対して大きな影響力を持っていたのは門下生と同様にすでに様々な国際展で活躍していた榎倉康二氏や工藤哲己氏といったインスタレーションやオブジェを主要な表現方法としていた教授であった。 
であるから伝統的な油彩画の技法材料について教えていた教授などはほとんど生きた化石のように見做され、多くの学生たちの視界から消え去ってしまっているといった印象さえあった。そんな風潮の中で学生時代を過ごした私の最初の個展も、既製品をつかったインスタレーションであった。 
こういった傾向から一転して伝統的な油彩画の絵画技法を学び始めた大きなきっかけのひとつは大学三年の秋から翌年春までの長期での二度のインド滞在である。インドでは日本や欧米とは極端に違った習慣が多い、まずインド人は日常での食事の際に食器を使わず直接手で食べる習慣がある。その際使われる手も右手と決まっていて、左手にはまた別の決められた用途があるのだ。そしてインドでは多くの人が菜食主義者で肉を食べることがない。またヒンドゥー教寺院では牛が神として崇拝されている。そしてもしそのヒンドゥー教徒の彼らが突然東京の焼肉店にでも連れてこられたとしたら、彼らは大きな皿に載せられスライスされた神様の亡骸を見せられ、さらにそれをハシでつまんで焼きながら美味しそうに食べている日本人の姿を見て、それは悪夢でありとても現実の出来事であるとは受け入れられないだろうと思われる。またインドの寺院遺跡や石窟寺院などにある祈りや瞑想を通じて生み出された寺院彫刻の作品群からは、特に近現代の欧米などで主流になっている作者の自己主張に基盤を置いて生み出される美術作品にはない内面的な静けさや深い精神性を感じとることができるのである。そうやって自分がそれまでに経験していた世界とはほとんど無縁の習慣や価値観を持った世界が確固としてこの世に存在しているのを実感し始めると、それまでに自分が培ってきた物の見方や価値観なども必ずしも絶対的なものではないかもしれないと思えるようになっていったのである。 
そしてインドからの帰国後、大学四年生が始まり旅行中に撮影した遺跡や寺院彫刻などの写真の中から特に絵画作品として残しておきたいと思った写真を使っての写実的な油彩画の制作が始まった。それはただ単に初めて油絵を描き始めた頃から私の心の中に感じていた写実的な油彩画の絵画技法を自分の納得のいくところまでは描いてみたいという願望をずっと持ち続けたまま実現できずにいたからだった。そして、それはアートの新しい概念や表現方法で世界にセンセーションを巻き起こしたり、また社会に対して自らのコンセプトを主張していくといった外向的な美術活動とは異なる道を探求し始めることになっていったのである。しかしながら本格的に私自身のささやかな楽しみとして絵画を学び始めることができるようになったのは大学院時代に入ってからであった。どうしても周囲の環境には影響されてしまうものだ。
美術学部の四年間を終えた後、大学院の入試では大沼映夫教室を受験した。大沼映夫教授は主に油彩画を描く作家なのだが彼の作品には抽象的な要素が多い。彼は日本の画壇では若い時期から相当の売れっ子だったそうで、“大沼調”という画風の流行語もあったそうで、一時期の東京藝大の受験生の多くまでもが入試の際にこの大沼調の影響を受けた作品を描いていたほどだそうだ。そういうわけで大沼氏は学生たちからも一定の位置を占めている存在であった。 
しかしながら私にとって彼の教室を受験した大きな理由は彼の作風や作家活動とは無縁の事項にあった。後に美術学部長になる大沼氏はすでに当時からそれなりの風格と、また彼の場合いかにもお金持ち風の風貌も備えていて大学構内にはいつも高級車のベンツで乗りつけていた。そして銀座の日動画廊で偶然見かけた大沼教授の描いた油彩画の小品には六〇〇万円の値段がつけられすでに売約済のシールも貼られていたのだ。それを見て、大学卒業後のことなどまったく考えていなかった当時の私にはとりあえず大沼教授に付いていれば自分も将来お金に不自由するリスクが減るかもしれないと思えてしまったのである。そういった娑婆的な動機を持って大沼教室を選んだのだが、彼との関わりの中では予期せずに大学院入試の当初から現在の私の画家人生のみならず自身の人生そのものにまで影響を与えてくれている大切な言葉をいただくことになる。それは大学院の入学試験の際、大沼教授との面接の時にいただいたものだ。 
大学院入試の際私は主な提出作品として美術学部の卒業制作であったキャンバス全体に白絵具を塗り込めた抽象の平面作品の大作を面接会場に搬入していたのだが、面接の際にはそれとは別に私は何かみっともないものでも見せるような態度でありきたりの写実技法で描いた油彩画の自画像の小品も大沼教授に見せたのだ。すると予想外にも彼はその油彩画の小品をとても気に入った様子で手にとり、画面に見入りながら次のようにコメントしてくれたのだ。
「こういった作風は斬新とはいえないから、世間的な評価は得られないかもしれないけれど、描いているあなた自身が癒されるんじゃあないのかなあ」と。そしてその時の彼の言葉はなぜか私の胸に深く染み入ってしまい、今現在でも私自身の画家人生におけるとても大切な指針のひとつになってくれているのだ。

筆者大学院時代の木炭素描(東京藝大石膏室にて), 65x50cm 1991年作
公開日 2007年3月3日 土曜日

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