保科豊巳退任記念展「萃点」とインド ウパニシャッドにおけるアートマン

2020年1月4日

保科豊巳さんの展覧会では『There is Here, Here is There - 此即彼 彼即此』『Light of Darkness - 黒い光』などそのテーマになるキーワードや個々の作品名だけをとっても強い興味を引かれてしまうことが多いが、ちょうど三日後の今月7日から19日まで開催される東京藝大教授の退任記念展では『萃点』(すいてん)という言葉を初めて知り、ネットのキーワード検索を通じて得た情報から大まかな意味を知り、保科さんのアートワークの主軸になっているテーマとしてのコンセプトが若い時期から現在まで生涯の長きに渡って常に一貫していたのであろうことを改めて感じさせられることになった。特に近現代の欧米を中心としたアートの世界では、過去を否定し新たな表現を模索していくといった、まるで進化論のようにアートの流れを捉えようとする解釈がことさら重要性をもって語られてしまうことが多いようだが、それ故なのか保科さんのアーティストとしての位置づけもポストもの派という現代アートの流れの中での枠組みのひとつに収められてしまっているようだ。しかしながら保科さん自身にとって最も重要なテーマは、時代の流れによって変化することのない部分、時間や地域を超えた人類共通の要素を探っていくことにより強い関心を持っていたのではと私は思う。そういった意味で保科さんのワークは最も古く最も新しいアートワークであるとも言えるのかもしれない。
保科豊巳さんのインスタレーションには、展示空間に立つ人が内側と外側の狭間におかれてしまったり、正面に裏面を見る、中に入っているのに外に出ているといった相反した感覚を同時に受けてしまうような仕掛けを通じて「場」の意味付け(言葉を通じた理解)を消し去ってしまうことを意図した表現があるが、それは一般に二極対立と呼ばれるような善と悪、光と闇といった表面的には相反していて共存し得ないと考えられている要素が実際には互いにからみあいこの世界が成立しているとする老子や荘子によって語られているタオの宇宙観に深く通じるものがあると思う。タオの秘教書として知られる『黄金の華の秘密』(太乙金華宗旨)には呂祖師(呂洞賓)によって語られたとされる次のような言葉がある。

「暑い六月に、突然、雪が舞うのを見る 深夜に、また太陽の輪が明るく輝くのを見る ・・・そして深い秘密の中でも最も深い真理を示す一句がある どこにもない場所こそ、真の家なのである」

ネット検索で調べた範囲での『萃点』という言葉に関し「あらゆる自然原理の必然性と偶然性の両面からクロスしあって、 多くの物事を一度に知ることのできる「理」が集まる点である」といった解説も目に留まった。またこの言葉はおそらくは南方熊楠(1867年~1941年)の造語であるらしい。
『萃点』を人体の脳の中央にある松果体のことでは?といったことが書かれた記事も見かけたが、私もまた両目の間、眉間に位置するとも言われるサードアイ、第三の眼=松果体のことが思い出されてしまった。『黄金の華の秘密』にはこのことに関連した次のような一節もある。

「呂祖師は言われる。それ自身によって存在するものは、「道」(タオ)と呼ばれる。「道」には名前もなければ形態もない。それは一つの本性、一つの根源的精神である。人は[真の]本性と[真の]生命とを見ることができない。この両者は天上の光の中に含まれている。人は天上の光を見ることができないが、それは両目の間に潜在しているのである。」

また『萃点』と『松果体』との関連性から、私自身の瞑想経験を通じて得た理解でもある、万物に浸透している宇宙の原初の基本原質のようなものとしての『アートマン』のことが思い起こされた。サンスクリット語の『アートマン』という言葉は古代インドの奥義書ウパニシャッドの一連の書の中でも語られていて、一般に日本語では『真我』とも訳され、人間の個我、霊魂などを意味する言葉として語られているものも多いが、ここでは魂以前のこの世界を成立させている宇宙の原初の基本原質のようなものとして語られたアートマンについての記述を『世界の名著 - バラモン経典・原始仏典』(中央公論社刊)から以下に抜き出してみた。

「全世界の眼である太陽が(被造物の)眼の外的な欠陥によって汚れないように、万物の内部に存在する一者としてのアートマンは、世界の不幸に汚されず、その外にある。」

「万物の内部にあるアートマンは、唯一の主であり、一つの姿を多様にする。それが自分のなかに存在するのを洞察する賢者たち、永遠の幸福は彼らにあり、他の者にはない。」

「原子よりもさらに微さく、大きいものよりもさらに大きいアートマンは、この世の被造物の胸奥におかれている。祭祀を超越した者は、憂苦を離れ、創造神の恩恵によって、アートマンの偉大さを見る。」

「・・・いわば二元性といったものがあれば、その場合には一方が他方を見るのであり、その場合には一方が他方を嗅ぎ、味わい、語り、聞き、思考し、触れ、認識するのであるが、いっさいがアートマンそのものになったときには、彼は何によって何を見るのであろうか。」

原子よりも微さく、大きいものより大きいという表現から、アートマンが人知を超えたものであることが想定できるが、それをいくばくかでも知的に理解する上で役立ってくれると思われる譬えに『点』があると思う。物理的に点を打つ場合僅かでも面積が必要だが、概念の中での点ではその位置が存在していながら数値としての面積がない故に、無であると同時にすべてであると理解することもできる。そして私自身の理解では万物に内在する唯一不二なるものとしてのアートマンにつながっている点が人間の場合、エネルギー体としての霊体の中心(核)に位置していて、その肉体上の位置についてはだいたい胸の中央にあたっている。そしてこの胸の中央にある霊体の中心点を通じ偏在するアートマンが認識され、この点を通じ存在するすべての次元が交差しあっていることが理解された。また私自身の経験ではこのアートマンは人体の頭部に位置しているサードアイを通じても認識されたことがあり、アートマンを観るという神秘体験を通じて得た理解に、この世界に存在するすべてのものが唯一不二なるものとしてのアートマンの顕れであること、また知覚的には微粒子の集合体のようなものとしても感知できるアートマンは、各微粒子で自立していながら同時に集合体としての全体が有機的にただ一つのものとして振動しているように観ぜられたのであった。さらにアートマンに関する理解での最も重要な点は、アートマンの微粒子には『意識の原質』とも呼べるものが備わっていることが理解され、このことから意識というのは生き物として理解されるもののみに備わっているのではなく、存在する一切のものに潜在的に備わっているものであるという理解が生まれたのだった。 保科豊巳さんの言葉に「私は森や石や木や水には、いつも何かが潜んでいるのではないかと感じていて、それに話しかけた。」というものがあるが、それは私自身が瞑想経験を通じて得たアートマンに関する理解と何か通ずるものがあるのではとも思う。以下もウパニシャッドの記述からの引用になります。

「このアートマンは万物の中に秘められていて、すがたをあらわさない。しかし明晰な洞察力をもつ人によって、鋭く微妙な理性をもって見られる。」

保科豊巳さんのアートワークの中での大きなテーマになっていると思われ、また私自身も強い関心をもっている『相反するものの共存』や『二元性の統合』といったタオの宇宙観にも通じる理解は、歴史上の宗教者として知られるイエス・キリストによっても語られ、異端の聖書として知られるトマスの福音にはそれが次のように語られているそうです。

「イエスは言われた、あなたがたが二つをひとつとなすとき、内なるものを外なるものと、外なるものを内なるものと、上なるものを下なるものとなすとき・・・・
そのときに、あなたがたは<王国>に入る─ 」(翻訳『愛の錬金術 隠されてきたキリスト』より)

東京インディペンデント展 オープニングトークでの保科豊巳氏 2019.4.13撮影
東京インディペンデント展 オープニングトークでの保科豊巳氏 2019.4.13撮影
公開日 2020年1月4日 土曜日

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