桜島の鹿児島, 西郷隆盛像と鹿児島市立美術館
2014年12月16日
今日十二月十六日は昭和を代表する洋画家の一人、小磯良平さんの命日。私は生前の小磯良平さんには一度も会ったことがないけれども、写実的な技法を使った絵画制作に際してはまだ大学に通っていた頃の若い時期から彼の絵画技法の影響を受けてきている。写実的な技法で描かれた小磯良平さんの油彩画の多くがそれほど細かい描写もなくまた時には描きかけのような筆のタッチが残されているにも関わらず絵画作品としてきちんと成立しているのは、作品を制作しているときの彼の意識が一般の写実画家のような描写によって“画面を埋めていく”、“描いていく”という意識ではなく、晩年のセザンヌやフェルメールのように“画面を構築していく”、“組み立てていく”という意識で制作されているからだと思う。また彼の場合、描き込み過ぎて画面がつまらなくなってしまう前のタイミングで筆を置き完成に至るという手法がとられていることが多いようで、私もまた後からの修正がきかないペンやインクなどで一気に描くドローイングでは、まだ筆を入れていけるような状態であってもその時点なりに画面が自然に見えるようになったと思えるタイミングで筆を置くという手法をとっている。しかしながら油彩画や鉛筆画のような描いた後からの修正が可能な画材を使って描く場合には、いったん描き過ぎの状態まで描き込んでいき、その後手垢でいっぱいの説明的になってしまった箇所をつぶしたり汚したりしながら、その部分を新たに描写し直すという作業を何度も繰り返していくという手法をとることが多い。でもこの違いは小磯良平さんが出版物の挿絵や表紙絵などを含め締め切りの期限に追われることが多かったであろうと思われる状況で絵画制作を行っていたのに対して、今日までの私の場合には締め切りとは無縁の状況で絵画制作を行う場合がほとんどであるという環境の違いも影響していると思う。また小磯良平さんはマチスの後期の絵画作品にも通じるような抜けのある軽さをもった油彩画の魅力をよく理解していたのではないかとも思う。
現在私が行っている緻密な写実技法を使った細かい手作業は、大きなタッチで一気呵成に描いていく場合や自由なタッチで直観的に描ける抽象表現の場合などとは異なり、どうしても描いた人間の手垢のようなものが入り込みやすく、せっかくの長い時間をかけ苦労して描き込んだ画面よりも絵具を混ぜ合わせるために無作為に筆を動かしただけのパレットのほうが絵画的に見てより魅力的なものになってしまっているといったことはよくあることで、それは緻密な写実技法を使った絵画制作を長年続けてきている画家の多くが感じていることであるとも思う。しかしながらその“手垢まみれの作為を通じて無為に至っていく”ということが私にとっての緻密な写実技法を使った絵画制作を行う際の最重要テーマの一つでもあるのだ。
この秋には五十歳にして生まれて初めて鹿児島の地を訪れた。私の母が促通反復療法と呼ばれるリハビリ治療を受けるために鹿児島大学病院の霧島リハビリセンターに五週間入院できることになり、私も付き添いとして二回に分けて鹿児島を訪れていた。川平法とも呼ばれるこの治療法は脳卒中片麻痺の中軽度の患者には特に効果的であるとも言われているそうで、そして偶然にも母の入院中には研修生の指導のためにセンターを訪れていた促通反復療法の考案者で現在はセンター長を退き鹿児島大学名誉教授の川平和美さんからの直接のリハビリ治療を受けることもできた。
私は母がリハビリ入院していた間、九月末から十月初旬にかけての数日間屋久島を訪れ、その後鹿児島市内にも立ち寄った。そして観光名所で知られる西郷隆盛像の前でドローイングのスケッチを描いていると、クロッキー帳の上に雨のような細かい粒子が落ちてきているのに気付く、それでいて紙は湿っていないので一瞬理解不能になり空を見上げた。すると粉のような雨が降っていて、次の瞬間それが桜島から降り注ぐ火山灰であることに気付いた。そしてその瞬間自分が実際に桜島の鹿児島の地を訪れているということが実感されたのだった。
その後描いている私の背後から現地の女性に「か・ま・ち・さんですか?」と声をかけられる。すぐに私は「鹿児島は初めてで、か・ま・ち・ではありません」と答えた。か・ま・ち・さんは地元ではよく知られた画家のようで大学に勤めながら鹿児島の風景をテーマに描いているそうだ。私が西郷隆盛像の顔を描かないままペンを置いてしまったので、彼女に「スケッチの邪魔をしてしまったようですね」と言われたけれども、「いえ、途中のまま止めたわけではありませんから大丈夫です」と答えた。西郷隆盛像のすぐ裏手には鹿児島市立美術館があり、彼女と並んで話しながら美術館のほうへ歩いていき、美術館の信号の前で「それでは、いつかまた」と挨拶をして別れた。
この日の美術館はちょうど企画展の準備中で常設展示の一部のみが見学できる状況だった。とりあえず開いていた西洋の近代絵画が並んだ部屋に入る。晩年のセザンヌが描いた画面に塗り残しのある風景画は無難なところでやっぱり魅力的、でもこの日一番に魅力を感じ、特に印象に残った作品は幻視画のような佇まいをもったルドンの描いたオフィーリアだった。美術館の中では鉛筆でのスケッチは可能とのことで、鉛筆でオフィーリア他数枚のドローイングのスケッチ模写をした。
母の入院中には霧島いわさきホテルで川平和美名誉教授の講演があり、会場を訪れた際に座った隣の席の方から、「坂本龍馬みたいな方ですね」と呟かれる。私が長髪を後ろで結っていたからそのように見えたのだろうか。この時期の私は母の入院の付き添いで霧島温泉郷に滞在し、また天孫降臨の地で天の逆鉾でも知られる高千穂峰にも登り、その前後には霧島神宮の宿にも滞在していた。そして坂本龍馬が西郷隆盛の勧めにより怪我の療養で鹿児島を訪れた際にも霧島温泉郷を訪れ、また高千穂峰に登りその後霧島神宮に立ち寄っていたことを後から知り、母の入院していた霧島リハビリセンターの周辺のエリアが坂本龍馬と所縁のある地であったことを知ったのだった。
今年夏に五十歳を迎えた現在の私には、若い頃よく耳にした『少年よ大志を抱け』といった諺は今は昔、『少年老い易く学成り難し』といった言葉が身に沁みるようにリアルに感じられてしまう。それでも、七十歳を過ぎた頃の葛飾北斎が富岳百景の冊子の跋文、後書きに書いたという「五十歳の頃から数々の図画を顕してきたけれども、七十歳前に描いたものは実に取るに足るものなし、百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」といったことが述べられている彼の言葉は今現在の私の画家人生においてとても大きな励みになってくれていると思う。
『己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百(五十歳)の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん 願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし』(葛飾北斎、富岳百景の跋文より)
公開日 2014年12月16日 火曜日
画家のノート コラム・エッセイ