タオ(TAO)をテーマにしたインスタレーション, 村松画廊の個展より
2018年5月22日
二十五年前の一九九三年五月には今はもう存在していない東京、銀座の村松画廊で個展を開催していて二十二日はその最終日だった。村松画廊は銀座にある現代アートのギャラリーの中でも長い歴史とそれなりの品格のようなものが漂っていて、それ故かもしれないが何度か開催したこの画廊での個展には私がとても尊敬していた著名な日本画家の近藤弘明さんや現代美術家の榎倉康二さん、また他にテレビディレクター時代の伊藤輝夫(テリー伊藤)さんなどは個展の開催に合わせ大きな花束を送ってから画廊を訪れてくれたこともあった。
そして一九九三年五月に開催した村松画廊での個展には、私の大学院時代の教授だった大沼映夫さんや、当時の私が最も憧れていた著名な現代美術家の一人李禹煥氏が偶然訪れてくれるという予期せぬ出来事もあった。大沼映夫さんのほうは私のほうから個展の案内状を送ってあったので他の用事のついでながら立ち寄ってくれたようだが、李禹煥氏のほうはまったくの偶然の出会いだった。そして村松画廊の入ったビルの一階には同じ現代アートのギャラリーとしてよく知られていた鎌倉画廊(現在は鎌倉市鎌倉山に移転)があって、ここでは李禹煥氏の常設の作品展示や企画展などもよく開催されていたので、たぶん李さんがこの画廊を訪れた際、二階の村松画廊で開催していた私のDMはがきが貼られた看板をたまたま見かけ興味を持って二階まで登ってきてくれたのではないかと感じているのだ。そのDMはがきに印刷されていた小さなインスタレーション作品の写真はそれぞれビンと缶のウーロン茶とコカ・コーラの四本を組み合わせて置いただけの作品だが、これは李さんが著書の中でも紹介している関根伸夫さんの位相大地というタイトルの作品や私がその当時から強い関心を持っていた道教のタオ(TAO)からのインスピレーションを得た作品だった。その小さな作品は大学卒業間際の時期に思い付いたアイデアを絵画棟の研究室の窓際に設置したもので、個展の案内ハガキにも使っていて、またこの時期の村松画廊での個展会場にも設置していた。でも個展会場に入った李さんが立ち止まって見ていた作品はウーロン茶とコカ・コーラを使ったこの作品ではなかったが、もし李さんが私のDMはがきに興味を感じ個展会場を訪れてくれたとすれば、彼を引き寄せるきっかけにはなっていたのではないかと思う。そして少しの時間ながら彼が足を止めしばらく眺めていた作品はインスタレーションではなく、壁面に展示されたキャンバス全体に白絵具を塗り込めた抽象の平面作品で、そして私自身の中でもこの作品はこの時期の個展の中で最も重要性を感じていた作品でもあった。私の場合どうして地塗りにも使われるような階調のない純白一色で塗りつぶしたのかというと、この時期の私には絵画が成立する上での基盤になっている下地(地)と人間が描いた部分(図)という地と図の関係を超えた作品をできるだけ分かり易い形で表現してみたいという思いが強く影響していたのであって、それはたぶん保科豊巳さんが描いているドローイング作品の中に、黒地に白い線(画面全体を黒で塗った後、引っかき削り取りできた白線)で描いているものがあるが、彼がそういった表現を使った動機とも重なる部分があると思う。一般的に絵を描く際は白が下地(地)でその上に乗せられる黒が人間が描いた部分(図)という先入観をもってしまう傾向があるので、それを反転させ打ち消してしまうことで地と図の関係を越えてしまいたいという考えが保科さんの中にもあったのだろうと私は感じているのだ。李さんには私の作品に対するコメントを求めたが、彼はただ笑っていただけで何も答えてくれなかった。しかしながら地と図の関係を越えていきたいというテーマは李さんの中にもあったのだろうと私は感じていて、当時出版された李さんの作品集の中で彼がキャンバスを使った平面作品について、無限をテーマにした事柄について語っている言葉にもそれが表れているような気がする。でも李さんの理解と私の理解の大きな相違点と思われる点は、私自身は人間の作為を有為を越えた無為の領域=無限と呼ばれるような領域にまで至らしめたいという考えを持っているのに対し、李さんの場合基本的に人間の行為はあくまでも有為の中にあり、有為を減らし最終的には消去してしまうことでしか無為、無限に至ることはできないという考えを持っていたのではと感じているのだ。そして実際彼はその後の個展でキャンバス上には何も筆を置かないという平面作品を発表しているようだった。しかしながら李さんが『風と共に』のシリーズを描いていた時期に「泥酔状態で描いてみたことがある」といったようなことがカタログの中で述べられていたように思うが、それについては彼の中に有為を無為に至らしめたいというはっきりとした意図があったのかもしれない。私自身は大学卒業間近に初めてエジプト、ギザのピラミッドを訪れて以来、宇宙の永遠性や普遍性といった無限を意味する言葉と共有する要素の大きいテーマにより一層強い関心を抱くようになっていたけれども、ギザの大ピラミッドや大スフィンクスのような建造物は、意識的に有為を無為の領域にまで昇華させようと意図されつくられた作品であるように感じていて、またタオの世界でいう無為自然とは行為に対する消極的な意味合いでの物理的に何もしないという意味だけではなく、有為が行為者を越えた領域にまで高められている状態をもさす言葉なのではというのが私自身の理解でもある。この時期の個展で展示していた私の平面作品では、画面一面に階調のない白絵具を置くことで視覚的には地と図の関係がなくなるが、キャンバス上に厚みのある油絵具を置く際の筆のタッチが有為の部分として残されていて、この筆のタッチを無為の領域にまで昇華させられるような絵画作品を生み出したいと考えていたのだった。
公開日 2018年5月22日 火曜日
画家のノート コラム・エッセイ